『ある街の記憶』中畑智監督インタビュー

Cinema Terminal Gate006コンペティション部門がオンライン開催となり、これまでのCinema Terminalにあったトークセッションや懇親会がおこなえない中で、また、「コロナ禍」によって学生映画が深刻な危機に直面している中で、学生の映画制作者の声を少しでも多くの方に届けるため、コンペティション選出監督のインタビューを掲載いたします。

コンペティションB『ある街の記憶』中畑智監督(『東京大学映画制作スピカ1895』)

聞き手:石丸峰仁(首都圏映画サークル連合代表)


石丸:お互い同期の委員として、いまさらかしこまるのはおかしな気もしますが。

中畑:そうだね。

石丸:さて、作品の内容に入る前に中畑監督とはCinema Terminalの話をしようかなと思います。中畑は僕よりも長い間委員として連合やCinema Terminalに関わっていて、また、こうして昨年に引き続いての選出となるので、中畑監督のCinema Terminalに対する考えを聞きたいと思います。

中畑:これって批判してもいい?

石丸:いいよ。

中畑:身内で頑張ったで賞を与えるというところに留まってしまっていて、しかも年々そうした傾向が強まっている気がする。

石丸:たしかにそういう傾向はあるかもしれないけど、一方で、連合の中で、外部の、Cinema Terminal以上の映画祭で評価される人も出てきている。Cinema Terminalの、次のステップへと進む人が出てきているという側面があるとも思います。それは決して悪いことではないはず。

中畑:そうだね。そういう作品も出してね、ってことだよね。

石丸:遠慮せず、どんどん出してほしい。

中畑:そのためにも、コミュニティとしての機能を高めていかないとな。

石丸:そうですね。というところで、作品の内容に入ろうと思います。『ある街の記憶』は主人公がしゃべらないことが特徴として挙げられると思います。以前から中畑監督には話しているけど、「失語」は初期の大江健三郎にも見られたテーマで、作品の内容についても、共通性があるように思えました。中畑監督は「失語」をどのような意図で取り入れたのでしょうか。

中畑:喋らせなかったのは、もともとそんなに喋らせるつもりはなくて、ヒロインの子も日本語を喋れるけど流暢ではなくて、だからそんな無理して喋らせなくてもいいかなっていうのはあった。脚本を書いているうちに、そんなに何個も何個もここはいらないな、とやっていくうちにゼロになった面もあるし。

石丸:もともと「失語」があったわけではないと。

中畑:あったわけではない。喋らせないことに意味はなかった。ヒロインは、要するに作品の世界を見るための目なんだよ。窓になっていて、彼女を通して、僕らが作品世界を見るというのをやろうとしていたわけ。そうすると声って邪魔なんだよ。喋っているのがうるさいんですよ。そういうのがあって喋らなかったというのがあると思う。「失語」というのはそうで、喋ると没入できなくなったから喋らなかった。

石丸:なるほど。「目」というと、『ある街の記憶』は瞳を意識的に撮っていたと思うし、そのために寄りのショットも多い。こういうショットを撮るのは結構難しかったと思うんだけどいかがですか。

中畑:寄りで撮るのを僕は多用するんだけど、一方で寄るとうざいんだよね。

石丸:分からなくはない。

中畑:寄ると、そんな顔見たくないなってなっちゃう。だから、寄っていいヒロインをみつけたっていうのが大きくて。彼女の目線なら押し付けられても不快ならない気がしたんだよ。

石丸:さっき作品の世界を見るための目っていったけど、それでいうと向き合っているともいえる。

中畑:そうだね、向き合っている。向き合っている……向き合っているというか鏡を見ている気持ちなんだよね。冒頭のワンショットで、彼女に対して没入してほしいんだよ。それが出来ているのかは分からないけど。

石丸:なるほど。僕は最初に観た時、絵描きのシーンで泣けてきた。

中畑:あそこまでが穏やかで、その次のシーンが前半部の終了で。

石丸:あそこで喋れない彼女が報われている感じがしたんだよね。一方で、それ以降の台詞は、抽象的というか、示唆的な言葉、観客には伝わらなくてもいいような言葉を取り入れている。

中畑:伝わるか伝わらないかはそれぞれの解釈で、僕は僕なりに好きにやっているのはあるんですけど。示唆的な、別に示唆的じゃないんだけどね。僕の一貫したテーマは絶対夢なんだよ。それは寝ている時の夢というよりは、現実に対する空想というか、非現実を指して夢って言っているんだけど。その夢って支離滅裂なんだよね。何が起こるか分からない。これは寝ている時の夢の話だけど、夢を見ている時には当たり前に受け入れている内容が、朝起きてみたらちゃんちゃらおかしいっていうのは茶飯じゃないですか。それをやりたくて、僕は。だから示唆的というより……。

石丸:文脈を欠いた、意味のない台詞。

中畑:うん。僕らにとってはおかしいんだけど、奴ら、作品の中では正常な台詞で、唯一、それをおかしいと感じるのが僕らの目線を持っているヒロインなんだよ。それがやりたくて、そうね、台詞に意味がないというのはそう。

石丸:そのあたりの台詞でいうと、「ゴシック体」は良かったと思います。抜群に良かった。「ゴシック体」という言葉がなぜか恐ろしく感じた。

中畑:「ゴシック体」って怖くないじゃん。「ガダルカナル島に行く」っていうのは戦争で、想像するから怖さがある。だけど「ゴシック体」って絶対怖くないんだよ。でもそれに対して怖さがあるとすれば夢から醒める怖さであって。

石丸:ああ、なるほど。

中畑:あそこでヒロインは、いうなれば夢から醒めるんですよ。ここが現実ではないと分かってしまう台詞という。

石丸:「ガダルカナル島」は凄惨な戦争の光景があり容易に想像できる恐怖なんだけど、一方で「ゴシック体」にはそういうものがない。想像し得ないからこその恐怖というか、重みがあったように思う。

石丸:あとは、中畑の映画には「カメラ」がよく登場していて、『ある街の記憶』にも取り入れられている。単なる小道具としてだけでなく、「撮る行為」まではっきりと撮っている。そこはどうなんでしょう。

中畑:僕はカメラをちゃんと使いたいんですよ。学生映画の作り手は映像を撮っているはずなのに、メディアを媒介する道具に対する意識が低いんじゃないかと思っていて。小道具を使うときに、自分の知らないことだから演出が甘くなるというのは往々にしてあると思うんだけど、それをカメラでやっちゃいけないだろうという。そういうのに対するアンチテーゼというのはある。必要だから出すというより、出す前提で作っている。『ある街の記憶』はフィルムカメラを使っていて、これはメメントなんですよ。撮った瞬間には確認できなくて、それを確認するときには過去になっている。過去に対する哀愁とか、まなざしを向けるのがフィルムカメラの特性で。

石丸:『ある街の記憶』では、主人公が現像された写真を見る場面で、「過去になっている」ことを意識づけているのかなと思うんだけど。

中畑:彼女がやっているのは、あの世界の記憶を残していっている。要は、彼女は最初からよそ者、L'Étranger、異邦人みたいな感覚は少なからず持っていて、だからしゃべらないというのもあって。彼女が写真を撮るのは、自分がいる世界を認める、自分が見ていると認めるための確認なんだよ。だから彼女にとってはメメントっていう意味がある。

石丸:なるほど。先ほどの話に戻るのですが、学生映画はカメラを使えていないということですか。

中畑:ほかの、例えばテニスサークルを描くのとはわけが違うから。カメラに対する意識が弱い。自分たちが使っているものくらいちゃんと映してほしい。

石丸:なるほど。それでカメラを使っているんですね。さきほど、異邦ということを言っていたけど。

中畑:異邦というよりはよそ者という言葉を使おう。異邦って、カミュの『異邦人』などがあって。でも、『異邦人』の原題にはそんなめっちゃ「異邦」って意味はなくて、そこまで逸脱していない。明確な違和感というよりは、僕が感じているのはちょっとちがうなあっていうので、作りたいのもそういうもので。

言ってしまえば、ヒロインに具体的なバックグラウンドを持たせるとしたら、ある時点から記憶がないのよ。

石丸:そうだよね! それは思いました。

中畑:作品が始まる数日前からたぶん記憶がないんだよ。なんかの理由で記憶を失っていて、自分がどういうバックグラウンドか分からない。だから、記録していきたかったんだよね。色々な意味で、自分の現状を客観的に捉えておきたいという意味でカメラを持ち始めた。でもだんだんわかってきて、「ゴシック体」のところで記憶が戻るんだよ。いや戻るかわかんないけど、まあ戻るんだよたぶん。自分は記憶がなくなったのではなくて、全く別の世界にいるんだって気づくわけ、パラレルワールド的な。見た目は一緒だけど本質が全く違う世界にいること気づくんだよ。だから異邦人ではないんだよ、同じ場所にいるから。だけどそこにあるちょっとしたよそ者的な違和感が少しずつ大きくなっていくの。だんだん、これは忘れているんじゃない、自分がそもそも全く別なんだっていうことに気付いていく過程。だから最終的には全く違うっていうところになっていくけど、最初は違うよね。

石丸:拒絶がない。

中畑:そうそう。ないんだよ。最初は受け入れているわけだから。

石丸:最後に主人公はほほ笑むんでいて、これは「街」を拒絶したといえるのでは。

中畑:最後、一個カットしていて、ともすれば結末が大きく変わるシーンをカットしていて。東大の正門前に戻ってきて、最初の演説していた人がもう一回出てくるんですよ。またおかしいことをいっているんだけど、前川が普通の恰好で言っているんですよ。そこでヒロインは自分の世界に帰ってきたってことで笑うんですよ。だけど、僕たちにとって結局彼女のいる世界も別の世界という。

石丸:そうだね、その構成だとそうなる。

中畑:そうなるでしょ。だけどその場面をカットしたんだよ。

石丸:なるほど。それでいうと、それがなくなったことで、主人公が全肯定的になっているよね。その場面の有無で主人公のほほ笑んだ対象が変わってくる。

中畑:そう。あのほほえみは、それが有ったら、彼女に没入していた人たちは裏切られるわけだけど。

石丸:ともかく、完成した『ある街の記憶』では、最初に見ていた世界であり、彼女のいる世界であり、私たち観客のいる世界に対して彼女はほほ笑んでいることになる。

中畑:そうだね。

石丸:なるほど、分かってきた気がする。なかなか充実してきたのではないかと思います。どうもありがとうございました。

首都圏映画サークル連合

2014年9月5日発足の団体です。 2015年9月1日現在、21の映画研究部、映画研究会、映画サークルが所属しています。 運営はすべて学生が行い、首都圏映画サークル連合運営員会が、その中心を担っています。 学生映画の質・知名度の向上、各団体の繋がり強化のため、合同上映会や合同制作を行っています。